2008年05月10日
教育の目的について考えてみるが、まだ答は出ない
そうそう。で、学びのステージの話である。まだ議論が練れていないのだが、忘れちゃわないうちに草案だけでもアップしてしまう。
日本の教育が良いか悪いかという議論は、教育の目的が明確に定義されていなければ無意味なのである、というのがこの話題の落とし所であーる。
学びのステージを大きく3つに分けてみる。羽生名人による「高速道路を走りきったところの大渋滞」を中心に考える。
1、 高速道路に乗り上がる前のステージ
2、 高速道路を走り続けるステージ
3、 高速道路を走りきった先の壁を超えるステージ
ということで勝手に話を進めてしまふ。
高速道路に乗り上がる前のステージ
これは多分、今の日本の義務教育レベルでの学校教育が目指しているのがこの辺りではないかと思う。学業において高速道路に乗っかるレベル(一流と言われるレベルの大学に入って無事卒業するというあたり)を目標としていて、創造力だとか、有機的に物事を繋げて見る視点だとか、そういうレベルではなく、とりあえず王道に乗っからせることを目的としている。そのため、測定困難な包括的な能力ではなく、個々の「点」の知識を植えつけること、これは即ちある程度の記憶力を養わせることが目的である。これが目的であると明言されているのであれば、日本の学校教育はそれほど悪いわけではないはず。香港や韓国などの教育も同じかも。平均的な底上げはかなり出来ている感じがする。
日本で3週間だけ子供たちを○文式教室に通わせたことがあるが、その時に先生が、「基本的に勉強が出来る出来ないというのは、100%記憶力の問題である」という話をされていて、すごく興味深かったのだが、それってけだし名言。茂木さんの本にもご自身がどれ程記憶に没頭したかという話が出ているのだけど、所謂日本の大学受験で勝ち残るには、数学だろうと国語だろうと、根本的には記憶力に左右されるというのは非常によくわかる。
高速道路を走り続けるステージ
これは完全にモチベーション維持の問題。杉村太郎ちゃんの「アツイコトバ」と英語の「王道」本などを読んで燃えてもらうしかない(笑)。日本の学校教育では、勉強以外の根性系クラブや文化祭、体育祭などで経験可能かも。途中諦めずにがんばり切った際には脳内ドーパミンだらけであらう。
高速道路を走りきった先の壁を超えるステージ
東大卒の茂木さん、慶応大学卒の梅田さんのお二人とも、「日本の学校教育は、もうアウトやろ(米国型教育の方が勝つのは明らか)」的趣旨の発言をされているのだが、要するに「日本の学校教育では、『高速道路を走りきった先をブレークスルーするかもしれない能力を育てることができない』というのは明らかだ」ということなのである。
つまりこうだ。新しい時代をポジティブに創造できるような能力を備えるためには、今の学校教育のベクトルではダメだけど、じゃぁ本気で地頭を良くするような教育だけを行っていれば、日本の一流と言われる大学に入学できるような「受験を乗り切るテク」は身につかない。結果、学歴的には三流レベルに留まる可能性がある。(本当はそんなの関係ないんだけど。真に頭が良かったら、何でも創造していけるわけで。)
親としてそんなリスキーなことはできないわけである。というわけで、高速道路を走りきった先なんてものは、本当に一握りの人間しかいけないところだから、そんなところを目指すのは狂気の沙汰というか単なる親バカかもしれない、とにかく王道に乗っかってもらえれば、後は自分で何とかするやろ、とか思うのが親心なのであろう。
話をかなり戻す。数年前にも戻しちゃう。
今では四面楚歌的扱いを受けている「ゆとり教育」の寺脇研さんは、高速道路を走りきった先をブレークスルーする人材を育てたかったのだと私は思う。そして私は今でもそれは間違っていないと思う。間違っていたのは、現場の教育者たちに、彼の真のミッション(使命)が周知徹底されていなかったこと、それを実現するための方法論が確立されていなかったこと、そしてそれを可能にする優秀な教育者が現場にいなかったこと、であろう。これはビジネスと同じ。経営学の授業を受けると、とにかく教授はすべて同じことをおっしゃるのだ。ミッションを明確に定義し、それを各個人に周知徹底させること、そのためには、そのミッションを達成するため、個々人レベルにブレークダウンされたゴールを実現することで、個々人にどんなメリットがあるのかを明確にすることに尽きるのだ。
教育の問題を語るときに、ミッションは1つである。
次世代を担う(優秀な)人材を育てる
であるが、次世代を担うべき人材がどういう人かによって、ゴールが違う。だから、そのあたりの議論がきちんと出来ていないうちに、日本の教育の良し悪しも、アメリカの教育の良し悪しも語れない。想像力という点ではダメだけど、記憶力の育成という点では日本の教育は悪くない。
でもね、私にはもう結論が出ているのだ。少なくとも日本の教育はダメだと思う決定的な理由があるのだ。
だって。
日本の学校での勉強って、ドキドキワクワクしないもん。
これがオチだったらちょっと弱すぎか(笑)。
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2006年12月08日
Cultural Diversity
子供の教育について、周りも色々と動き始めている。
うちのお隣さんの香港人ファミリーは、子供二人が今年からオーストラリア(シドニー)留学となり、専業主婦であったママも一緒に行ってしまい、パパ一人が香港単身居残り。子供の教育を真剣に考えた上での結論なのだろう。そういう姿を見て、私も親としてこれでいいのかと、時々グラッときてしまうことがある。子供の将来を考えてあげるのが母親として第一義なのであろうが、私は大学とかの情報を見るとすぐ、子供ではなくて「私が行く」という発想になってしまう。私はまだ18歳か。
同じアパートに住むインド人ママさんからは、もっと強烈なメッセージをもらう。先日、テニスの個人コーチを紹介してもらった時に、彼女は熱弁をふるってくれた。
貴女に紹介するのに変な人を紹介するわけないじゃない。信じて。すっごいプロフェッショナルな指導をしてくれるから。
あ、プロフェッショナルでなくていいんですけど、うちは。
あら、なーに言ってるの!USの州トップの大学に行くんだったら、勉強がトップレベルっていうだけじゃだめなのよ、貴女知っているわよね。例えば、音楽とか、またはスポーツなどが得意で、それも大会で優勝したとかそういうレベルで優秀じゃなきゃだめなの。本当は以前スケートをさせていたのだけど香港に引越してきて環境がないからテニスにスイッチしたの(テニスを彼女の入試の武器にしようとしている)。貴女も何か一つか二つ、子供たちに考えてあげてる?TOEFLとかSATとかの準備もさせなきゃいけないし、あーインドに戻ったら思った通りの教育を受けさせることができるのに、ここは情報が少なすぎる。でもねUSから資料を取り寄せる手配をしたから、まだ時間はあるわ。考えることが一杯すぎて頭がバクハツしちゃいそうっ。
ちなみに彼女の子供は一人である。ちなみにまだ小学生である。
TOEFLとかって、コドモの教育の話題なのかーっ。私のTOEFL対策本をコドモが読む日が来るのかいな?捨てないでおこう。
私は答えた。
ゲッ。うちはダメよ、アメリカ行きたいって言っても行かせられないわよ、高すぎ。うちはもう州トップの大学なんて行けるレベルにないし、だいたい大学に行くかどうかもわからないじゃない。
と言ったあたりで地雷をふみかけた。いかん。彼女に「中卒でもいい。働け」メンタリティを理解してもらうのは、三泊四日強化合宿徹夜討論でも無理だろう。そりゃーこのままp.h.d.までノンストップでいってもらいましょうか、さぁさぁ、っていうテンションの彼女に、私の弛緩しきった教育ポリシーはショッキングですらあろう。
本当、インド人の中の頭の良い人たちというのは、ちょっと普通の勉強できますレベルではなくて、天才と呼ぶに相応しい程のぶっちぎりな高さを誇る。よく長女と「インド人すごいっ」という話題が出る。このインド人すごい説は、私の普通語の先生の持論でもある。彼女の生徒さんの中にも、信じられないスピードで言語を習得していくインド人がいるらしい。すごいとしか言えない。彼女は普段はかなり客観的に物事を判断する成熟した頭脳の持ち主であるが、何故かインド人のことに関しては理性が働かなくなる模様。私が「でも、インド人全てが頭いいわけではないわよ。個人によるわよ、個人に(実際、オーストラリアでITエンジニア出身の学生を沢山見たが、半分はめっちゃすっげー、でも残りの半分は舐めとんかワレ状態であった。)と言っても彼女は首をぶんぶんと横に振って。
「インド人は全員、ぜーんぶめっちゃ頭いいのーっ」
と文化人類学的比較考察をぶちまけ譲らない。
片やご近所に引っ越して来られた某中華圏の教育ライター女史は、以前の私そっくりである。
「宿題がない学校がいい学校。子供は遊んでナンボ。何なのこの学校(我が家の子供と同じ)すっごい宿題ばっかりで、これアカンで。なんで小学生がこんなに勉強せなあかんねん。え?○○○は宿題ないの?リーディングだけ?そっち行こ、そっち(笑)」
みたいな(注:大阪弁ではない)。
わー、これぞ文化的多様性と言えよう。
しかし、例えばすっごい優秀な子供達を持てば、思わず教育熱も上がっちゃうかもしれないけれど、うちの子たちなんか、もう朝から晩まで下ネタばっかりで、最近見たDVD「ピンポン」に影響されて、ピンポンばっかりしてる。しかも、めちゃくちゃな変則スマッシュとか開発していて(完全に吉本ピンポン部劇場みたいな)、もう全身脱力しちゃうほどのアホっぷり。進学以前に無事単位落とさず進級できるか心配というレベル。これ「ドラゴン桜」とか見せたら良かったのかな?(笑)。
Posted by akemi at 23:59 | Comments (0)
2006年12月05日
子育てを科学する - II
さてここで私の個人的チャレンジである。
私自身の暗黙知を形式知に変換してみる。
4人の子供をどうやって公平に扱うか、ということを取り上げてみる。「公平という概念を教授する」のではない。目的は「公平に扱われているという想いを、4人の子供それぞれに抱かせること」である。
さて子供たちがケーキを4人に分ける、という状況を考えてみる。
同じ大きさで4等分することが公平なのか(6歳から13歳までいる)。
大きさを変えるのであれば、どのように変えるのか(年齢による増分比はどうやって算出するのか?)。
実はこれ、我が家の場合は4等分で、末っ子が残す場合などは、それを他の3人がじゃんけんで勝者を決めて、その勝者が残りを獲得する、みたいな感じである。
これは当エントリーの本題ではない。
彼らが常に「親によって公平に扱われている」という想いを抱いている場合、あまり物質的な部分で揉め事は起こらない。不満を抱えていると、その不満が物質的なものへの欲求に反映されたりしてしまう。だからこの物質的なものの分配手法というのは、あまり考える必要はない。子育ての本質ではないのだ。おまけに親が介入せずとも、子供たちの間で解決できる範囲の問題である。
「子供自身の中での公平に扱われているという想い」は、「親側が公平に扱っているという想い」とは全く何ら因果関係、相関関係がない。また物理的な因子としての時間など(例えば、それぞれの子供に同じだけの時間接する、ということなど)も、実は全く関係がない。1時間話し続けても「ママちゃん何も聞いてくれてない」と思う子もいれば、一日一言二言しか話していなくても「自分のことを理解してくれている」と満足する子もいる。かくも子育ては難しいことなのである。
今度は「公平に扱われているという想い」の本質に迫る。「公平に扱われている想い」というのは、要するに「親に対して不満を言う必要がない」状態であるとも言える。実は「公平さ」が大事なのではなくて、他の子供に対して「公平でない(ずるい)」を発する時の心理状態は、「不満」が存在している。
つまり、こうなる。
「公平に扱われて、兄弟平等に育ててもらった」と思うに至るには、育って来る年月の中に「不満」を残さないことではないかというのが私の得た結論である。
次にどうやって「不満を残さないようにするか」である。
そこで私は自分自身のことを考えてみた。
ダンナに対して「満足」「自分は大事にされている」と感じる時はどんな時か、数日間考え続けてみた。
- 仕事で忙しい時に横からちょっかいを出されて好き好きと連発されても鬱陶しいだけである。
- 私が怒っている時に自分の立場が悪くなるのを避けるために神妙に謝られても保身にまわっているだけだと思う。
- 今日あったおもしろい事をダンナに話したら、顔も向けずに返事もしない。思わず「ねー」と大声を出しつつ話を続けていたら、「ふーん」の一言で片付けられてしまった時などは、もう絶対に私のこと愛してないのねっ、と確信してしまう。
- テレビを見ているダンナにお茶を淹れたら、私の顔を見ながら「おっ、気がきくねー、ありがとう!」と言ってもらったりすると、かなりポイントが高い。
- PCに向かっているダンナに話しかけたら、「ほい、なになに」とこちら側を向き、私の話を興味深そうに聞いてくれて、時々ツボにきちんと爆笑したりすると、もうバッチリである。
でね、これで私は膝をポンと叩いた。
ビジネスと同じである。
子供は顧客である。
顧客の満足度を高めるには、顧客の要求に応えることである。
顧客の要求とは何か。
欲しいものを、欲しいときに、こちらが望む方法で(適正な価格で)。
先に述べたように、子供の本当の欲求というのは、実は物質的なものは後手に来る。精神的な満足が第一義なのである。しからば、子供の精神的な満足を得るために、親がすべきことの一番は何か?
いくよ、結論言うよーっ。
子供から話かけてきた時(その瞬間に)、とにかく何をしていてもその子の顔を見ながら全身全霊をその子に傾けてその話を聞く。そしてその子の要求を聞く。
これだけである。実は。
これだけで、子供はコロッといっちゃう(笑)。
その要求というのは、実はものすごく簡単なことだったりする。
高いところにあるものをとってだとか、宿題教えてだとか、私の話を聞いてだとか、工具を使いたいだとか。
それをその瞬間にエプロンで手をふきふき、ハイハイ、わかりました。これね、これでいいかしら、そう、面白いね、なんて頭をなでつつ言うこと聞き続けた暁にゃー、もう子供たちは私の犬も同然(笑)。当然、兄弟間の関係も良くなる。それぞれに不満がないからね。
親側からは、逆に全く働きかける必要がない。鬱陶しがられるだけである。
難しいのは、その実践である。
理論はいい。しかし、これを実践するのが結構難しい。ついつい「後でね」と言ったり、「えーっ」と拒否したり、生返事をしてしまったり。
ということで、暗黙知を明文化したところで、その情報を100%活用(共有)できるかというのは、また別の課題であり、やはり知識管理というものはかくも難しいものなのであーる。
Posted by akemi at 00:30 | Comments (0)
2006年12月04日
子育てを科学する - I
壮大なタイトルを書いてしまう。
現在またまたパートタイムで学んでいるのは「知識管理」なるものであるが、その中で色々と考えて来たことを、子育てのメカニズムに適用してみるとどうなるのか、子育てというのはアートの部分が多く、そこにサイエンスがどこまで迫れるのか、それが今回のエントリーのチャレンジである。
まず何故私が知識管理を勉強しているかというと、最初のモチベーションは「IT技術情報の集積」にあった。で、その技術情報というのは、時には暗黙知(tacit knowledge)と呼ばれるもの(明文化されていない、または明文化できない経験則的なもの)もあり、そういうものを含めての「知識の管理」とその問題点を学ぶというところにあったのである。元々は「暗黙知」を「形式知(explicit knowledge)―明文化された知識」に変換する具体的な方法論などがあれば、それを手っ取り早く習得したいと、そういう狙いもあった。
勉強を始めてみると、「日本人の発想」みたいな部分にどうしても目がいってしまうようになった。実はもともと「知識管理」なる概念は、日本発(野中郁次郎氏が日本的経営の強みを欧米に紹介したのが発端)で、それが欧米でブレークして、現在では日本はこの分野では大きく遅れをとっている。「ビジネス現場における(良い意味での)日本特有の何か」の存在、そしてトヨタのカイゼンなどの経営手法が、なぜ現場の津々浦々まで浸透できたのか、それらを説明するのに、この知識管理という概念が使えないか、現在模索しているところなのである。
「日本人特有の」ということを少し考えてみる。
行間を読む
空気を読む
さじ加減
塩梅
これらの言葉は日本人が好んで使う言葉であるが、これらを明確に定義することはかなり難しいであろう。
例えば、「その場の空気を読んで行動しろ」という言葉を考えてみる。もちろんこれは「状況に応じて判断をし、周囲の誰もが納得し得る行動をとる」ということに他ならない。でも、その状況に応じての好ましいリアクションを考えてみた時に(ある1シーンを切り取って、その状況を例にあげてみても)、「空気を読むのが非常にうまい人」が、そのアクションをとるまでのメカニズムを科学的に分析して、しかもその手法を明文化して残そうとした時に、それがどれほど難しいことか、というのは容易に理解できるだろう。
そこで、子供を育てる母親として、子供に対して私自身がとるアクションを考えてみた時に、それぞれの子供によって対応が違い、それはもう各種各様の状況に応じた「さじ加減」が勝負と思ったりするのである。それを何とか形式知に変換できないかと頭をひねってみたのだが、もう想像を絶する様な情報量であろうと思ってしまうのだ。
例えば子育てハウツー本と言われるものは、その想像を絶する情報量の中の、ほんの一部を紹介したにすぎないのだな、と最近つくづく感じるのである。
例えば、思春期に異常行動を起こす子供に対して、親は「全てを受け入れること」をカウンセラーから指導されたとしよう。このアドバイスがうまくいかない場合がある。何故か。
「全てを受け入れる」という情報が、全てを伝えていないからだと私は思う。
子供がやりたいこと、欲求を全て受け入れる。
子供が誰かを殺したいと言いました。
お店のものを盗みました。
俺のために1億円用意しろと叫びました。
あの女とヤラセロと言い、それを止めませんでした。
「全てを受け入れる」ことの中にも、さじ加減があり、暗黙知を必要とされるのだ。
さじ加減の中には、その時の子供の状況や、親側の心理や、親子関係や、家庭内の事情、他の兄弟との関係、もうありとあらゆる因子が絡み合っていて、それを前提にした上での好ましい「受容」であって、そこまでカウンセラーの先生は、相談に来る親御さんに伝えられるわけではないのである。
「地頭の良さ」というものは、この「暗黙知」の宝庫みたいなもので、昔であれば、その「暗黙知」は比較的うまく伝承されていたのではないかと思う。ところが、例えば子育てのように、従来アートとして扱われるような部分にまで、形式知(明文化されたマニュアル類など)が重要視されるようになり、膨大な暗黙知が放置された形になっているのが現代なのではないかとも思う。
これらの暗黙知の伝承をどうするか。
過去の日本のように、前後左右の人間関係が濃く、伝承の機会がとてつもなく多かった以前のような関係に戻してみる、というのが一つの方法。暗黙知を、人から人へ伝えるという方法である。
もう過去へは戻れないだろう。
そこで、暗黙知をできるだけ形式知に変換する、というチャレンジが考えられる。
ということで、私のチャレンジが続く。
Posted by akemi at 23:55 | Comments (0)
2006年09月10日
オージーママとの議論
まだ書いてなかった。オーストラリアのママとの教育論争の話。PISAの件で思い出したわい。
2003年。オーストラリアでの生活に慣れてきて、英語の勉強に本腰を入れ始めた頃だった。
相変わらず儲かるビジネスを考えるのが趣味であった当時の私は、PISA2003の結果を見てポンとヒザを叩いた。
これはイケル。
一気に企画書を書き上げ、数字を押さえておかねばとPISAの結果をひっぱり出しつつ私はニタニタであった。私の企画を色々なママさんに話してみると、皆一様に、アケミ頭いいわね、是非やりなさい、そう背中を押してくれた。それは、
教育教材の企画、出版会社である。
実は、オーストラリアでは本をはじめ、コドモたちの教育教材(要するにドリル類)などが存在はしているものの非常に高い。日本であれば数百円でも結構しっかりした紙質のものが手に入るが、オーストラリアでは薄―いドリルがかなり高価。こんなの買うヒトいるんかいなという値段であった。それで、日本にあるような廉価版の教育ドリルを販売したら、絶対売れる、そう思ったのだ。おまけにPISA2003の結果、日本の数学はトップ6で、オーストラリアがトップ11であったのだ(ちなみにトップは、香港、フィンランド、韓国)。日本は充分にトップレベルに食い込んでおり、日本の教育メソッドを取り入れたいと思う家庭も多いだろうと思ったのだ。
皆の賞賛を受け、自信満々で某友人に対しても同じ様に私のビジネスアイデアについて熱弁をふるった。彼女は非常に頭が良く独立心が強く、私が常に一目置いているヒトだったのだが、彼女は歯に衣着せぬ口調でこう言い放った。
友人だから言うけど、あなたのそのビジネス成功しないと思う。
それは、あなたのビジネスが陳腐だからというわけではなく、オーストラリア人の教育に対する考え方が、あなた方アジア人とは全く違うからなの。
私は正直言って彼女が何を言いたいかがよくわからなかった。私はそこであわてて反論した。
だって、あんなに高いドリル誰も買わないじゃない。だから安いものだったら、子供のために一冊くらい買おうと思う、そういう親もいるじゃない。私は何もデカい商売を期待しているわけではなく、ニッチを狙えばいいと思って….。
彼女は根本の前提条件が違うのだと言いたげに私の言葉をさえぎった。
誰が買うの?少なくとも私は買わない。多分多くのオーストラリア人の親達は、そういうものを買おうと思わないんじゃない?だって、小学生の子供にとって一番大切なのは何?机にかじりついてワークすることが大事だって思う親は、オーストラリアには多分一人も居ないと思う。私だったら、まず社会性を身につけて欲しい(develop social skills)と思うの。
それに….
彼女は本腰を入れて話し始めた。彼女はある日本人の女の子がメルボルンにある○文式の塾の宿題をやっているところを見たことがあるという。その女の子は非常に頭が良く、肘をつきながらサラサラとその問題を解いて見せた。その姿を見て彼女は憤りを感じたらしい。
あれが勉強(study)?日本人はあれを勉強と呼ぶのね。生きた知識でも経験でもなく、ただ机の上で鉛筆を動かすことだけが勉強だと呼ぶのね。でもあれ、勉強なんかじゃないわよ。あぁいうのは、パズルと呼ぶの。
このセリフは私にかなりの衝撃を与えた。
ビジネスにならないとかそういうレベルではなく、保守的な日本にあって自分は多少前衛的なモノの見方をしているのではないかと自惚れていたが、自分のモノの考え方が、いかに井の中の蛙であったかを、38歳にして知らされてしまったからだ。
私でさえ、机の上で鉛筆を動かすことが勉強だと思っていたのだ!私は自分の企画書を力なく破り捨てた。
正直言って、語学学校などで行われるアクティビティ中心の授業に疑問を感じていたこともあった。教育というのは教育者が明示的にプロセスを設計し、それを一つも欠落することなく教授するものであると思っていた。そのために勿論教科書が必要だとも思っていた。しかし語学学校では教科書などなかった。新聞やテレビ、一般書籍を使って行われる授業に、こんなことやってても遠回りじゃないか、と思うことが多々あったのだ。重複したり欠落したり、どうしてくれるんだと言いたいこともあった。
冷静になって考えると違うことが見えてきた。100マス計算を強いられることもないオーストラリアの子供たちであるが、トップ11につけている。塾にも通い、そろばんも習い、学校からの宿題もこなす日本の子供たちが6位で、リーディングはするけど数学の宿題なんかそんなにあるのか?というオーストラリアが11位だ(とは言ってもPISAの対象者は15歳、小学生ではないが)。日本の効率が悪いと言うべきか、オーストラリアが健闘していると言うべきか。私は頭の中がこんがらがってきてしまった。
話を整理する。
私の混乱の原因は、「勉強」という言葉のもつイメージだ。私たち日本人が考える「勉強しているコドモの姿」というのは机に向かっている姿に違いない。誰もトランポリンでジャンプしていたり、音楽を聞きながらダンスしながら、そういう図ではないはずだ。しかし、勉強の目的が「知識や技術の習得」または「将来に必要なモノの考え方を獲得する」と定義するならば、その結果を引き出せるのであれば、方法論を問う必要はない様に思えてきた。結果的に得られるものが同じであれば、何もしかめ面でウンウン唸る必要もない。いや、むしろ自分の経験から言うと、すっごい面白かったり意外な驚きがあったり、内面からじわじわと感動したりと、そういう感情を伴った時の方が知識の定着率が良いとさえ思う。
ちょうどその頃、100マス計算で成績が上がっただけではなく、コドモ達の情緒も安定してきたという話が日本にあった。この難しい時代に情緒の安定というキーワードは多くの日本人の親御さんの心をぎゅっとつかんだに違いない。それを見て日本の子供たちがかわいそうになってしまった。他に情緒を安定させる方法がないのか。
宿題はリーディングだけ。忘れ物チェックもない。お弁当は自分の好きなもので、スナックタイムもある。大きな校庭で走り周り、夜遅くまで庭で走り回り、満天の星を仰ぎながら家族みんなでBBQ。情緒が不安定になりようのない環境で、何がうれしくて100マス計算に情緒の安定を求めるかいな。
とは言っても我が家が現在住んでいるのは、日本以上に教育加熱沸騰中の香港。PISAの結果もぶっちぎり、さすが科挙試験の本場ですわな。まさに「机にかじりつくのみが勉強」と信じて疑わないこの国での我が家のコドモたちの変化は、うーん、それを書けるのはきっと3年後くらいかしら(笑)。
Posted by akemi at 00:57 | Comments (0)
2006年09月09日
日本語版レクサイル導入推進委員会
の自称会長のあけんです。
教育図書を中心に出版社の皆様、そして斉藤孝さんあたりが提唱して頂ければ、数年後には実現できるのではないでしょうか。
[2006年4月下書き文に修正加筆してアップしました。]
ちなみに韓国では「リード指数」が導入されました。英語圏ではリーディング能力を示すレクサイル指数というのが存在しており、日本にも、このリード指数やレクサイル指数と同じ様な尺度を導入すべきだというのが、今回のエントリーの主旨であります。
このレクサイル指数Lexile scoreは、一言で言えば子供の読解力を測定するための尺度を示すものなのである。どうやって測定するかというと、これが面白い。あらかじめそれぞれの本のレベルが設定されており、その本の読解に関するテストをPC上で行う。その正解率で本人のLexileが判定される、ということになる。その基になるデータベース作成に膨大な時間と労力が注ぎ込まれて行ったのだと容易に想像できるのだが、そのシステム自体が非常に「システマティック」になっており、明確でしかも今後のリーディングの目安(次にどのレベルの本を読むのが適当か)も提示される。自分のリーディングの伸びが一目でわかるし、PC上のクイズに答えるので、それほどプレッシャーにもならないらしい(本人談)。
私は日本の国語の授業方法があまり好きではない。それは全てのレベルの人間が同時に一つの文章を吟味する上に、「この本の主題」などに明確な答えが用意されていることなどが子供の頃からオカシイと思っていた。オーストラリアで子供たちの読解力を測定するのにこの指数が用いられていることを知って、日本の国語しか知らなかった私はびっくり仰天だったのである。当時ちょうどPISA2003の結果(要約、全文。各教科毎に、性差や前回比などの詳細レポートアリ)が発表になり、結果が芳しくなかった日本で教育を見直すべきなどの議論が沸きあがっていた頃だった。
さて、何故過去の下書きに加筆しようと思ったかと言うと、小学生の教科書に古典が含まれているという記事を読んだからだった。斉藤孝さんあたりの影響かなと思うのだが、それを見て、結局日本の教育界はno ideaなんだな、と思ったのだ。子供たちの国語力、読解力をつけるための方法論にアイデアがないのだ。だからこんなにも数年で方針がコロコロ変わってしまう。それに比べて英語圏では、これほどまでに分かりやすい指針がある。本気で羨ましい。
正直言って、子供たちの活字離れが進んでいるという実感が私には全くない。自分のコドモだけではなく、子供たちのお友達もみな一様に活字好きである。ハリーポッターもその活字好きに一役かっていると思うのだが、みんなすごく本を読んでいる。私にはとても子供たちの国語力が低下しているとは思えないのだ。だけど、「国語」という教科が好きというコドモたちはあまり聞かない。本は読んでも国語は嫌い。漢字覚えるの面倒くさい、読書感想文キライ、イベントがあると必ず作文を書かされる、等等。
ということでこの辺りでPISA2003の結果をご紹介。
東アジア(教育過熱気味)諸国は、やはり常にハイパフォーマンスをマーク。算数などはぶっちぎりですな。安定して高いレベルを保っているのは、やはり北欧とカナダ。
しかし。
リーディングになると、突然日本の結果がガクンと落ちるのだ。反面オーストラリアが大健闘。コドモ達は現在カナダ式インターに通っているが、そのカナダも他教科と同じくハイパフォーマンスをキープ。リーディングに関して言うと、ほとんどカナダとオーストラリアは同じ学習法が取り入れられている様に感じる。そう、レクサイルに応じて毎日どんどん読ませるだけ。全員それぞれのレベルに応じてただ読むだけ。時々レクサイルチェックを受けて自分のレベルを確認しつつ、読むべき本のレベルを微調整するのだ。
オーストラリア人に読書家が多い、というのはあまり知られていない事実かも知れない。しかし、電車の中ではほとんどの人が活字を読んでいるのだ。私の友人たちはみんな、必ずペーパーバックが一冊カバンの中に入っていて、ちょっとヒマができるといつでもそれを読んでいる。マンガ読む人など見たことがなかった。
実は。
私は、日本の国語の教科自体が、日本のコドモたちのリーディング能力を低くしているのではないかと思うのだ(低いとは言っても、その他諸国に比べれば充分にハイレベルとは言えるのだが…)。要するに「本を読むこと」を面白くなくしている様な気がするのだ。リーディングだけではなく、本当はライティングこそに致命的な教授法の間違いがあると私は感じているのだが。
とにかく。
古典を味わう、とかそういう表面的なことではなく、日本語版レクサイルなどを導入して、どんどん全員がそれぞれのレベルに応じてガンガン読書をこなしていく。人と比べるのではなく、自分の伸び代に目をむけ、文章を読み取るコツをそれぞれがつかんでいけばいいのにと思う。リーディングで一番大事なことは、正しく文章を理解し、自分を起点にして、自分にとって必要な何かを吸収することではないかと思う。それは時には作者の主題とは関係のない部分に、深く感銘を受けることだってある。
どんなことでも、
とにかく量をこなす時期が必要である。日本の教育は、いつ変わるのか。
さて、今年PISA2006の結果はどうなることでしょうか。
Posted by akemi at 22:53 | Comments (0)