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2006年11月21日

bullying in Japan

話のネタが少し途切れたとき、某氏がこう切り出した。

「最近、日本でのいじめ(bullying)の問題についての記事を読んだのだけど」

こちらでもそんな報道がされていたのか。私は一般的な話で留めたいと思いつつも答えた。
「そうですね。小学生、中学生、高校生。最近、いじめが理由の自殺も多く報告されていますね。日本では大きな社会問題になってるんですよ。」

「自殺」というキーワードに反応した中国人女性が話に加わった。

「なんで?勉強のプレッシャー?」
をを流石、教育加熱沸騰中の中国人ママの発想。いえいえ「いじめ」が原因でね。と解説するも、彼女はどうも納得いかない様子。

件の彼は続けた。「その、少しわからないことがあるんだけど。例えば先生や親が、いじめをする子供たちに対して『そういうことはしちゃいけないんだよ』とか、そういうことを言って止めたりしないのですか?」

私の頭の中に色々な状況が思い浮かんだが、思わず
「周りから見えないこともあります。しかし問題なのは、先生の中にいじめを許容したり、場合によっては率先してやったりする人もいるのです。」

「先生が!?」
かなりショッキングな響きだったらしい。

「一部ですよ、一部。全部じゃないですって。」

横で話を聞いていた中国人女性。

「いじめなんて、どこにでもあるわよ。特別なことじゃない。」

話を一般化させたかった私であるが、彼女の台詞で何故かスイッチがかちんと入ってしまった。

「違います。日本のいじめは違うんです。一対一ではなく、例えばクラス全員が一人をいじめたりするのです。学校は子供にとって唯一の社会で、そこで仲間はずれにされてしまったら自分に未来はないと思うんじゃないでしょうか。未来に悲観して、自殺してしまうのかもしれない。彼らには逃げ場がないんです。」

「でも、例えば一対一では勝てないと思ったら、グループになって一人をやっつけるっていうのは、どこにでもあるわよね。」彼女は答えた。

「私の見方なんですが、日本では、目立つ人を批判する文化的、社会的傾向があると思います。いじめの問題には、そういう背景があると思うんです。」

とは言ったが。

家に戻ってからも、本当にそうなのか少し自分でもわからなくなってきた。
本当に逃げ場はないのか?

もちろん、日本でのこの現象は諸外国の状況を鑑みても「特異」であると断言できる。色々な国の人の話を聞いてみたが、犯罪を犯したわけでもないたった一人の人間が、多人数(例えば帰属集団の他のメンバー全て)から一方的に拒否、無視、暴力、恥辱を加えられるというのは、想像しがたい。またまたそれが原因で自殺するのも異常であると。でも私は日本人だから、さもありなんと思うのだ。一億総バッシング、が得意な国民性。今日に始まったことではない。

でも私は一つひっかかることがあるのだ。

それは、ある球技のクラブでのいじめが原因で自殺してしまった女子中学生の女の子に関してなのであるが、報道によると、同じ様にいじめの被害に遭っていた女子生徒が、その数日前に退部していたらしい。

その報道を見て思った。

そうだよな。それが正解だよな。

何の義理も義務もないクラブ。辞めるのが正解だろう。自殺する理由が一つなら、死なない理由は100いやもっとある。逃げたらいいのに逃げ場がないと思い込んでしまうのは何故なのか。

退部した女の子と、自殺してしまった彼女との間で、何が違ったのか。

プライド、かも。

私が思うのは、彼らが自ら死を選んでしまうのは、それが「復讐」だからなのではないかと考えたのだ。いじめた相手を名指ししたメモを残すのは、そのためだろう。

自分を苦しめる相手に、生涯消えない傷を与え、世界中の人に、あいつが悪いのだと訴えたかったのかもしれない。

でも、きっと、その復讐は成就しない。
もちろん、加害者とその親達は、しばらくは苦しむだろう。でも、月日が経てばきっと忘れる。もちろん、何かの拍子に思い出すことはあっても、彼らは将来、自分の思い描く職業を選び、伴侶を得たり、人生を謳歌する瞬間を得るだろう。腹の底からゲラゲラ笑い、本当にどうしようもない奴らであれば、亡くなった人を冒涜するような台詞を、お酒の席で吐くかもしれない。

復讐は、成功しないのだ。

反対に、迷惑をかけたくなかった、悲しませたくなかった、親や兄弟や親戚たちは、本当に一生逃れられない悲しみと後悔と苦しみとを抱き続けてしまう。季節が変われば、年を越す毎に、誕生日が来れば、卒業式、入学式、桜の咲くころになれば、30年経っても、50年経っても、その悲しみは穏やかになるどころか深く更に絶望的になってしまう。

生きていれば、子供を抱っこしているのかしら、もしかしたらあんな職業で活躍していたかも。

もう、誰も死なないで欲しい。

心の底から憎いと思う人のために、大切な時間を、大切な気持ちを、大切な命を捧げる必要などない。自分の命は、自分の心は、大切な人のためにだけ使えばいい。

追記:サーバートラブルのために、1週間前のバックアップに戻されてしまいました。ということで、以前の追記が復旧できず(涙)。
これだけはURL残しときます!

いじめが自殺につながる日本の「空気」

Posted by akemi at 07:49 | Comments (0)

2006年11月17日

Identity – IV

もうかれこれ10年以上も前の話をしてみる。

ソウルで韓国語を学ぶ学生だった時のことである。そこは韓国語を勉強するにはメッカの様なところで、そこには在日韓国人2世、3世の人たちも多く居た。彼ら、在日僑胞(재일 교포)たちの多くは、その語学学校に来るまでに色々な葛藤を抱えていただろうということが理解できた。きっかけは、多分日本での就学や就労のタイミングなのだろう。歴史的背景を一から説明する必要はないだろう。彼らはその時、日本人なのか、韓国人なのか、自分は何なのかという葛藤を抱えてしまう。結論を出すには、自分のルーツを探らねば。そう言ってやってきた友人を沢山知っている。彼らのほとんどは、自分探しの途中で、韓国に居る間に結論が出るのかどうかもわからない、そういう不安を抱えながらも苦しんでいた。日本の近代史を恨んでみても、私にはどうすることもできない。

しかし、全く違う考え方をする人たちも居た。それが、在美僑胞(재미교포)、在米コリアンの若者達である。彼らのほとんどが、自分が何人であるか?というアイデンティティの崩壊を全く経験しない。彼らの言葉は明瞭だ。

「俺の中にはコリアンの血が流れている」

韓国語を習いに来ている彼らは、韓国語が母国語ではない。でも彼らは100%自分は韓国人であると迷いもなく答える。

日韓の歴史をここで語るつもりはない。あまりにもトピックが大きすぎて私には手が出ない。

ただ言えるのは、アイデンティティと言語は関係ないかもしれないということだ。じゃぁ、言葉もできずに自分は韓国人だと主張する彼らのアイデンティティはどうやって育まれたのか。何かにおいて一貫したものがあったのだと思う。そのキーファクターにおいて一貫したものがあれば、アイデンティティの崩壊を招かないのだろうと思う。それは確固たる所属集団なのかな、とも思う。

ニューヨークに長く住んだインド人の知人が言っていた。ニューヨークが大好き、眠らない街。でもね、民族のコミュニティはそれぞれ分離されているのよ。香港の方がミックスしていて楽しいわ。

在米コリアンの彼らは、韓国人コミュニティの中で多くの時間を過ごしていたのかも。今となっては確認をとる術もない。

Posted by akemi at 01:18 | Comments (0)

2006年11月16日

Identity – III

香港に来て子供たちが学校に通い始めてしばらくしてからのことだった。
子供達の学校には多くの日本人が居て、子供たちはそれをとても喜んでいた。

もちろん日本の子供達と遊ぶ様になると、我が家にも日本の方から電話を頂くようになった。それが何回か続いたところで、私は自分をどこに置けば良いのかがわからなくなった。いや誤解を恐れずに言うと、私は自分を何人だと捕らえれば良いのか混乱して来たのだ。私は100%日本人なのに。

日本の方の話す言葉の内容が、全く見えなくなっていたのだ。

オーストラリアで生活した2年半。ノーはノーで、イエスはイエス。ノーは相手の人格を否定しているわけでも、拒否しているわけでもなく、単なる「いいえ」。相手の言葉の行間を読む必要もないし、ビジネスを学ぶ学生でもあった私は、行間を読ませることは、相手に対する思いやりのなさの現われだとさえ思っていた。

だから行間を読ませる必要のないように、誤解を与えないように、きっちりと自分の意見を言うのが100%正しいと思っていた私は、電話口の向こうのママさん達のおっしゃることが、イエスなのか、ウェルカムなのか、ノーなのか、はたまたノーなんだけど問題ないレベルなのか、イエスと言っているのだけど本音は激しくノーなのか、全く見えなくなってしまっていたのだ。

電話を切って頭を抱えることが数回続いた。
何度考えても相手の真意が読み取れない。相手の感情を読み取るのを得意としていた(と思い込んでいた)私は、鍛えなければそういう能力さえも失ってしまうということに気づいた。私には、もうその能力はない。そんな私でも、電話をかけ直して、先ほどのおっしゃる意味は何なのですか?と聞き返すような真似だけは、決して受け入れられないだろうということだけはわかった。

私、日本人じゃない、のか?

でもオーストラリア人でも韓国人でもないのだ。もうインドあたりの国の人になっちゃいたい様な衝動にかられたりもしたが、しばらくすると子供たちの交友関係のシフトとともに、悩むことも無くなった。それからやはり1年くらい経つ。

コスモポリタンとして生きられればいいのに。

Posted by akemi at 01:17 | Comments (0)

2006年11月15日

Identity – II

台湾系米国人の彼女の言葉を忘れるほどには時間が経っていない頃、私が知っているだけで7種類の言葉を操る人と話をする機会があった。少なくとも、私は彼女の話せる言葉のうちの3ケ国語を、仕事上の電話で使っているのを横で聞いたことがある。少なくともその言語はビジネスレベルにあると言っていいだろう。

彼女は国際結婚をしていて、私にとっては非常に羨ましい家庭内環境にあるにも関らず、彼女は自分の子供を「単一言語」で教育しようとしているのを見て、私はぎょっとなってしまった。少なくとも、父親と母親の母国語が違うなら、その二ヶ国語くらいは環境として与えても良いと思うのに。

「なんでー、もったいなーい」

というこれまた安っぽいリアクションをした私に、彼女は、前の彼女と同じく、一瞬口をつぐんで、そして一呼吸おいてから、意を決した様に語り始めた。

「私自身にね、アイデンティティの混乱があるのよ。って言うか、アイデンティティがどこにあるのか分からないの。それがね、もうとっても苦しいの。夜中にガバッと起きて涙が出ちゃうこともある。だから私は子供には確固たるアイデンティティを持たせてあげたい。」

多分、彼女の苦しみは私には一生理解できないと思う。
言語とアイデンティティって関係あるのか?

彼女に母国語は何かと尋ねても、強いて言えばこれかな、という言語はあるにはあるが、ここ数年使う環境には居ない。要するに住んでいる土地の言葉が次第に第一言語になってきてしまう(つまり現在は広東語!)、という私には信じられない様な超人的なことを言うのである。

彼女の悩みは外からは絶対にわからない。
自信に満ち溢れたキャリアウーマンにしか見えない。
彼女が喉から手が出る程に欲しい何かを、彼女はまだつかめていない、のだろう。

日本人として、日本のパスポートを持ち、日本語を読み、日本語を話す私は、彼女達から見ればきっと、「確固たる日本人としてのアイデンティティ」が備わっている人として映っているのだろうか。

これは「日本人らしい行動様式」だとか「典型的な日本人的発想」を会得している、という話ではない。アイデンティティを語るのに、「日本人として」というのはどうでもいい話だと思いたいのだが、そうは簡単には片付けられないかも。

私も一瞬、フラッと来たことがあったっけ。

Posted by akemi at 01:10 | Comments (0)

2006年11月14日

Identity – I (自我同一性)

Needs(必要)の裏には「喪失」という概念が隠れている。
「無い」から必要だと思うのであって、既に自分自身の中にあるものであれば、あえてそれに「気づく」必要もないのかもしれない。

例えば失って初めて知る「健康の有難さ」。病気になれば健康を熱望するが、当たり前の様に健康であれば、その大切さを知ることもない。

私はずっと「アイデンティティ」なる用語の持つ意味がよくわかっておらず、口にすることもない(使うとすれば、Corporate Identityくらいか(笑))。でもそれが、自分自身の中に既に存在しているために気づかなかったのかもしれない。

と思ったのは、香港に来てからほんの短期間の間に、この「アイデンティティ」という言葉を、全く別の二人の口から聞いたからなのだ。

このエントリーを開始しようと思っている今でも、私はこの「アイデンティティ」という言葉をどこから料理すれば良いかがわからない。でもいつか何かに気づくかもしれないと信じて、少しずつ記しておこうと思う。

現在、香港で米資本のコンサルティングファームに勤める台湾系アメリカ人女性と話をしていた時のことだった。

彼女は一瞬言葉を飲み込んだ。

何の話からか忘れたが、流れる様なアメリカンイングリッシュを必死の形相で聞き入りながらも、洒落た話の一つでもと頭の中で話題を探していた時だった。彼女は飲み込んだ言葉を出そうかどうか迷っている風で、私は好奇心旺盛ではあっても、ゴシップ好きではない。彼女が言いたくもない言葉を無理に言わせることもない。話題を変えようと思った時に、意を決した彼女はこう切り出した。

彼女は、アイデンティティに問題を抱えている、と。

いきなりサビ、である。

彼女の話の要旨はこうである。

アメリカの教育では、瞬間瞬間で自分の意見が求められるらしい。熟考して論理的な結論を言葉を選びつつ出すというよりは、頭によぎった言葉全て(それは時には全く意味を持たない様な言葉であっても)、とにかく何らかの言葉を瞬間的に出すことを求められるそうだ。クイックレスポンス。指をパチンと鳴らす様なタイミングで、即自分の意見を言わなければならない。誰の指示も受けない、自分だけの価値観で自分の意見を正々堂々と表明する。アメリカ人の家庭に育ち、アメリカの学校で学んできた学友たちは、それが自然にできる。でも、彼女にはそれができない。

何故ならば彼女の家庭内は、台湾の価値観で動いているからだ。

彼女は、幼い頃から「子供というものは親に従わなければならない」という価値観のもと教育されてきたそうだ。親に反抗したり、批判したりは許されない。黙って親の言うことを聞くことが即ち正しく良い子供であると言い聞かされてきた。

家庭内では黙って従え、外に出れば自分自身の意見を言えと。

そんな中、彼女は自分が誰なのか、自分の国籍はアメリカだけれども、純粋なアメリカ人とは違う、でも台湾人とも違う。離す言葉はアメリカンイングリッシュで、家庭内の会話程度なら台湾語で困らない。だけどどちらにも所属してない感じがして、彼女は自分のアイデンティティが崩壊していて、自分でもどうして良いかわからないと言うのだ。

ねえ、それって決めなきゃいけないことなの?台湾人として、とか、アメリカ人として、とか、そんなのどうだっていいじゃない。私の目の前に居る貴女は、二つのバックグラウンドを持つ、それこそユニークな個人であって、それの何処に問題があるのかが全くわからない。

とは、言えなかった。

私は、うんうん、とだけ頷いて、でも気の利いた台詞の一つも言えぬまま、多分、それが貴女の魅力なんじゃない?とか、彼女の欲しかった何らかのヒント、とはかけ離れたカラッ滑りな言葉を吐いて、一まずその場を離れたような記憶がある。

その日から既に1年ほどの月日が流れた。
彼女が強く強く感じ入って、片時も離れないであろう「アイデンティティ」の重みを、私は未だによく理解できないでいる。

Posted by akemi at 01:14 | Comments (0)

2006年11月06日

香港の大学生の男女比

古い資料で恐縮なのだが、OECDの2000年度の報告によると、

「日本の25〜34歳の男性の大学卒業資格所持率は33%で、OECD諸国の中で最も高い。一方、25〜34歳の女性ではその比率はわずか 14%で、OECD平均を大きく下回っている」

というのが日本の現実である。

で香港はどうなのか、という話題であーる。

現在週に1回、パートタイムでExecutive Certificateの講座に通っているのだが、そこで驚いたのが男女比である。自分が日本で大学生だった頃、その学部の女性の占める割合は全体の2割弱で、大学全体で見ると確か女性は1割程度ではなかったかと思う。オーストラリアの大学院では、1割にも満たなかった。

でマネジャー向けのこの講座では、全体数14名のところ12名までが女性!(因みに私以外は全員香港人)。それを見て何が読み取れるのかと色々と考えてみた。

命題
そのフィールドに女性が多い?(不明)
女性の方がキャリアアップにCertificateを利用しようとする?(不明)
女性の方がアフターファイブに時間をとりやすい?(不明)

ずっと色々と考えてみたがよくわからない。

しかし直近のセッションの中で、こんな話題が出たのだ。

香港の大学では、女子学生の方が数が多い。
医学系に限って見ると、全体の3分の2は女性である。

まじすか?
因みに教授も女性でございます。

香港はいい。
バリバリ働くのがデフォルトだからね。
性別は関係ないってことで。

追記:HKU Libraryに行ってみたのだが、確かに女子学生多い気がする。図書館入り口左手にスタバ(!)があったので入ってみると、ほぼ8割が女性であった(教授らしき西洋人は男性だったが)。しかも皆「一人ご飯」。一人ご飯が様になるなんて、ホントいい国だわ。

Posted by akemi at 23:21 | Comments (0)