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2006年04月18日

どこかに置き忘れた大事な何か

世の中には、色々なモノの考え方があって、価値観も違う。
何が幸せかということの絶対的な尺度があるわけでもなくって、相対的な尺度も実はなかったりする。

多分、機密性の高い家に住み、食うに困らぬ生活は幸せな人生だと呼べるに違いない。でも、それはある一つの尺度においての悩みが一つ無くなったということ位の価値しかないのかもしれない。雨露凌げる家に住んでも悩みは無くならない。

生活に困らず、真夜中にもネットゲームに興じて、働かなくても食べていける。明日の生活もままならない人から見れば、それは贅沢の限りを尽している様に映るだろうが、引きこもっている人達にとっては出口の見えない苦しみこそあれ、これのどこが幸せなのだと思うだろう。

昆明には、多分学校にも行っていないだろうな、と思われる子供たちも居た。自転車の後ろに大きな調理器具を乗せて、親の仕事を手伝っている小学生くらいの男の子を見かけた。夢だの希望だの、そんな言葉は一生頭に浮かばないかもしれないが、彼の顔つきを見ていると不幸には見えなかった。むしろ自分がこの世からいなくなてしまったら、一緒に自転車転がしている母親は明日からどうやって生きていくのか。立派な働き手としての自負さえ感じられた。

昆明の公園には老人たちが沢山いた。中国楽器を奏でる人、編み物をする人、孫の世話をする人。お茶を飲んだりマージャンしたり。老いも若いも集まって談笑する姿もあちこちで見かけた。老人達の表情を一人一人見ていると、全員それぞれカメラに収めて持って帰りたい衝動にかられる。深い皺。しゃんとした背中。うまく言えないが、老人たちの表情から高貴ささえ漂う。

その圧倒的な気品。

参ったな。完全に負けだなと思った。私がいくら毎日を必死で生きて、いくら財を成したとしても、あの表情には一生勝てないと思った。彼らに「貴方は今幸せですか」と問えば、いや聞かなくてもわかっている。

そりゃ、人生良い事ばかりじゃないさ。でも、働き者の子供がいて、孫がいて、友人たちが居て、美味しいお茶を飲みながらこうやって過ごせて、まぁまぁ幸せと言えるんじゃないかな。

思いっきり幸せだって言ってますよ、そのお顔が。

香港の街には分かり易い尺度がある。だからその尺度で幸せの度合いが測れるような錯覚に陥る。いや多分それは錯覚ではなくって、本当にそうなのかもしれない。経済的に豊かなものが豊かな生活を得て、それは間違いなくここでは幸せなのだと、そう思ってしまう。でもどんなにお金持ちの香港の人でも、昆明のご老人の様な、穏やかな笑顔を讃えることのできる人はそう多くはないかもしれない。

私は常々、選択肢が広ければ広いほど、可能性は広がると思ってきた。その命題はもちろん真なのだろう。でも自分の経験から言うと、選択肢が広いからと言って自分の意思や趣味がストレートに反映できて、その結果自分が幸せな結論を得たかというと、そうでもないのだ。人間そんなに自分のことをわかっているわけでもないし、そんなに多くの可能性があるわけでもない。却って少ない選択肢の中から、都度都度、より自分にとって有利な方とか、楽しい方とか、苦しいけどやり遂げる可能性がある方だとかを選んでいく方が、確実に理想の自分に近づけることもある。

昆明の人たちの生きる選択肢は、いくら中国が発展してきたといっても、まだまだ日本や香港ほど広くはない。毎日をただただ必死で生きていく、そういう人生なのだろう。

私だって必死で生きていっている筈なんだけど。なんかね、私の魂の位置が低い気がするのよ。誰も出し抜いてないし、蹴倒してやろうとも思ってないし、それでも勝てない位置に彼らが居る様な気がしてならない。

葛藤が、ある。

自分が必死で働いたり、日々節約したりしてね、子供が成人するくらいまでは親として出来ることはやりたいと思っていて、それは自分の中では100%善だったんだけど、その結果、あのご老人の表情には近づけない気がするのだ。

なんか大事なことをどっかに置き忘れてきた気分。それが何かが、ノドまで出掛かっているのにわからない、そんな気がするのだ。ただ私はあのご老人たちの表情を思い出すと涙が出ちゃう。あぁきっと私もダンナも日本に両親を残しているからかな。親孝行全然できてないからかな。お金で幸せは買えないからかな。

でも私は必死になっている自分の手を緩めることもできない。目前にやらなければならないことが山積みだからだ。

でも、どこかで忘れちゃいけないんだなと思う。
今、昆明に行ってみて良かった、と思う。

Posted by akemi at 2006年04月18日 02:26

Comments

「なんか大事なことをどっかに置き忘れてきた気分。それが何かが、ノドまで出掛かっているのにわからない。」
そのあけんさんのお気持ち、とても分かるような気がします。
自分探しの旅は、すすめればすすめるほど、何かに近づいているような、それでいて答えが霞みの向こうに行ってしまうような不思議な感覚に陥るときがあったりして、味わい深いですね。

私は、あけんさんの行動力が眩しいくらい素敵に感じます。妻として、母として、そして自分自身として、とにかく行動し、様々なことを感じる。その一つ一つが宝石ようにあけんさんのこれまでの人生の流れを彩っておられるような、そんな気がします。
昆明で感じたことは、また一つあけんさんの輝きにプラスされることでしょうね。

先日はコメントにお返事を頂きありがとうございました。


Posted by: miyuki at 2006年04月18日 16:24

Miyukiさま

コメントありがとうございます!まだまだ40歳過ぎても青くってトホホですが、輝きだなんてそんなもう、ただの冴えないオヤジの入ったオバサンなので、お恥ずかしい話です。いつになったら自分なりの答えが出るのか、道はまだ険しく遠いです。WaTの「道標」という歌の中に「進むべき道標を見つけてもまだ明日は見えない」という歌詞があって、ものすごくわかるんですよね。彼らはまだ20歳で彼らの歌詞にはリアリティがあって、でも私だってこの歳になっても見えないものだらけで(笑)。Miyukiさんのコメントの中にもヒントがあると思って、必死で読ませて頂いています。いつもありがとうございます。

これからも宜しくお願い致します。

Posted by: akemi at 2006年04月18日 19:56

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