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2006年01月03日
「力」とラベリングの日本
日本から香港に戻って、今日「紅白歌合戦」を見た。
と言っても、私の兄に録画してもらったものをスキャンして面白そうなところだけをピックアップして30分ほどで見ただけなのだが、久しぶりにテレビなんか見ちゃって嬉しい私である。
ゴリエちゃん最高。彼女だけで3回も見ちゃった。
倖田嬢、初めて見たけどすごいっ。今年目指すならあのボディーかしら(恥知らず)。
天堂よしみさん、すごかった。感動しすぎで号泣しちゃいました。
久しぶりに日本に帰って見て感じることは多々あったのだが、その中でも、何にでも「力」を語尾につけた名詞化用語を多用(結婚力、論理力、対人力などなど)することと、数的裏づけの乏しい単純なラベリングで人間を類型して論ずる傾向(負け犬、下流などなど)にはしばし閉口。前者の「力」の意味は、多分、活力ではなく能力を意味するのだと思うのだが、定義が不明瞭なままに何となく納得できてしまう錯覚に陥る。しかし、例えば「結婚力」などと語ったときに、それは「結婚する能力」的な語感を与えてしまうので、「結婚=善」だとか「既婚=能力アリ」的な恣意を読者に与えているような気がしてならない。
窮屈だな。全く。
もういいかげんメディアもキャッチーな話題ばかりを探さないで、もっとコトの本質に迫るような深いことを語れよ。
「ゆとり教育」に対する批判もすごい。私は基本的に寺脇研さんの物の考え方に賛同しているが、結果的に家庭の果たす役割がクローズアップされて、激しい二極分化が起こってしまったような印象(教育に関心のある親とそうでない親)は否めない。
私は日本の高等教育(大学教育)が変わらない限り日本はどうしようもないと思っているクチなので、子供たちは出来れば日本から離れたところで高等教育を受けて欲しいと思ってはいる。しかし実際は、子供たちが自分で決めることなので自分の価値観を押し付ける気持ちもない。失敗しても後悔しても自分で決めたことにゴーして、自分で結果を受け入れていくしかない。
私が日本の大学が嫌いな理由はいくつかあるが、特に
1、日本の大学教授は「自分たちは教育者ではなく研究者である」という感覚がしみついていて、学生への教育にパッションを感じたり、時間を割いたりしない。
2、課題で出典なしに、他人の著書のコピーをしても「優」が取れるような、国際的感覚で言うと信じられないようなことが日本の大学の現場にはある。
3、勉強しないで卒業できる。
の三点が特に論外だと思っている。よくそれで「○○学士」なんて授与されるよな。
日本とオーストラリアの両方で高等教育を受けた経験からすると、オーストラリアの教授の質には驚いた。課題の採点も実に丁寧、生徒からの質問に時間をたっぷりと取って下さるし、授業が実にパッショネート。黒板に向かって一人ブツブツなんて教授など一人も居ない。「我々は教育者である」という認識が徹底していて教育者としてプロフェッショナルであろうとする。しかし日本の大学で教鞭を取っているかなりの人たちが、教育者としてよりも研究者としての自分のキャリアアップに意識が向いているのが露骨に分かる状態。
大体、論理的思考、コミュニケーション、段取り、質問、交渉などなど、実際の仕事で必要とされる能力を、日本の大学では全く必要とされない。しかしオーストラリアの大学では、プロジェクトやグループワークや、プレゼンテーション、アサイメントなどを通して実に多くのこと(前述の論理的思考など)を学ぶ。高校(前半)までの教育が、アジア人からするとのんびりしている様に映るのは、このような点数に表れない、脳を多面的に磨くことに主眼を置いているためではないかと思う。親の方も大学(それと大学入学前の2年間くらいは一気に大変になるらしいが)に入るとかなり勉強をしなければならないことがわかっているので、それまではあまり机にかじりつくことを強要しない。しかしアジア人の親はそういう年齢でも自宅や塾で必死に学ばせようとするので、高校まではアジア人が成績上位を占めることが多々あるが、それがずっと続くわけではない。
確かに私もアジア系の人たちの(平均的)優秀さには感心する。でも欧米系で優秀な人たちを見ると、ちょっと格が違うというか、アジア的優秀さも凌駕する「すべてにおいてトップレベル」みたいな人たちが居るのだ。私が学んでいた時に鳥肌が立つほど優秀な学生が二人居て、一人はアイリッシュの女性、もう一人はオージーの男性だった。二人に共通しているのは、何かに突出している、のではなく、すべてにおいて突出している、という点だ。
アサイメントのクリエティビティ、リーディングの確かさやその吸収力、文章の構成力、論理的な整合性をはじめ、課題に対するパッション、プレゼンテーションにおいても、声の出し方、聴衆を飽きさせない構成、身振り手振りまでがプロフェッショナル。プロジェクトにおいては、プロジェクトの遅延部分をカバーしつつリーダシップも取る、人一倍睡眠時間も削っていながら愚痴一つ言わない。ミーティングをしても時間を全く無駄にせず、建設的な話だけをポンポンと進めて、さっと切り上げる。特にアイリッシュの女性とは一緒に居る時間が長い時期があったので、かなり刺激を受けたのだが、彼女の考える完成度(や仕事におけるプロフェッショナル度)というのは、「目指す」のではなく「プロとして当然のレベル」という認識であることがありありと感じられたのだ。
私がいつまでもキラキラを目指してしまうのは、そんな周りをも感動させる彼らの様な域に、いつか達したいという気持ちが強くあるからなのだ。そして彼らの幼少の頃を勝手に想像してみると、それは「晩の遅くまで塾通い、机にかじりついた青春」でないことだけは確かだと思ってしまう。私が子供を塾に追い立てないのも、勉強は自分で必要と思った時にいくらでも吸収することができるけれども、こういった多面的な能力は、一朝一夕に身につかないということが身にしみてわかっているからだ。目に見えた点数で子供の成長を計ることはたやすい。寺脇研さんも、そういった目に見えない部分の重要性に気がついて、それをしっかりと脳の柔らかいうちに多面的に身に着けていくべきだと思っていたに違いない。点数として測定することができないために、結果が出るまでに批判だけが増大していってしまった。残念でならない。しかし実際には、いや本当の問題点は、教育の現場に「今日本で必要とされる人材を育成できる教育者がいない」ということなのだろう。
日本に居る間、私はかなりウェットな気分にもなり、自分の人生すべてを愛する家族や親戚などのために使うべきなのじゃないか、それが結局自分にとっても後悔のない人生なんじゃないかと思ったりした。
香港に向かう飛行機の中でも、目の前の風景がぼやけてしまうほどに何度もウルウルとなってしまったのだが、香港に着いた途端に、私の目はパキンと乾いてしまった。
なんてぇ街だ。
乾くだけではなく、涙で美しく洗われたはずの私の気持ちまでもが、パキパキとドライアップしてすっかり攻撃モードに逆戻り。今年は、いつも通りハートは熱く、しかし自分の中の偏向性を認識して、立体的に自分をインプルーブさせようと思っている。立体的にというのは、脳の一部分だけではなく、内面も外側も、勉強も仕事も遊びもガンガンやるのだ。今までは勉強ばっかり仕事ばっかりで、そういう時は、それ以外のことに目を向けることが即ち「逃げ」みたいに思ってしまっていたのだけれど、それが逃げではなく「幅」になるのかな、などと思うようになってきたので、食わず嫌いをなくして、ガンガン遊ぶのだ!(って時間があるのだらうか。)
Posted by akemi at 2006年01月03日 01:04
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