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2005年11月21日

そうだ、お寺へ行こう

メルベンのブライトンにある自宅から車で30分ほどのところに、そのお寺はあった。

nothing specialなある週末、ダンナは突然お寺に行くぞと言い出した。京都、奈良などのお寺を小さい時から頻繁に訪れていた私にとって、教会よりも何よりもお寺や神社は心地よい場所だった。

メルベンにある中国のお寺。

そこには特別な標識も何もなく、もう少しで見過ごすところだった、いや見過ごして戻ったのだったかもしれない。とにかくそのお寺の駐車場に車をとめて参観あいなったのだが、これが私が見慣れた重厚なお寺とは似ても似つかない、現在も増築してまっせー、という様な軽さの漂うお寺であった。でもお寺はお寺。来たからにはちょっと拝んでいきますか。

子供たちと一緒に散策をしていると、一人のお坊さんが話しかけて来られた。彼に昼食をどうですかと聞かれたので、精進料理のレストランでもあるのかと思った私はダンナと目を見合わせて、断るのも何だしと思って「じゃ、行ってみます」とそのレストランらしき場所を目指した。

もっと早い時間だったらもっと色々とあったんだけど、今度からは来られる前に是非お電話くださいね、と言われつつ、値段も何も書かれていない食堂の様なところに通され、オーダーも何もとられないまま、家族全員の前に食べ物が並べられた。子供たちには沢山の果物と1本ずつのジュースも配られた。

美味しかった。ナチュラルなものが好きな私にはたまらない味だったが、かなりなボリューム。食事をとりながら「これはいくら請求されるのだろうか」とか「どこかにお布施していかねばならないのだろうか」などという邪念がぐるぐるぐるぐる。そんな私の心配をよそに、英語の上手な一人のお坊さんが(メルベンにあったにも関わらず、英語が話せる人はそう多くなさそうだった)、そのお寺の改築計画について詳細に語ってくれた。彼がここに何年住んでいるだとか、そういう話も聞いたと思う。

食事を終えてゆっくりしていたのだが、そろそろ失礼します、という段になって、彼は電話番号を私たちに手渡し、「次に来られる時は必ず事前にお電話ください。お食事を準備してお待ちしております。今回は私たちの残りものの様なものしかなくてごめんなさいね」とおっしゃって、そのまま立ち去られた。

そして私たちはゆっくりと参観を続けて車に乗り込んだ。最後まで支払いもお布施も要求されることがなかった。

その彼のにこやかな姿を思い出したのは、日本のニュースサイトで、ある未成年の加害者が被害者の家族と面会したというニュースを読んだ時だった。

彼に限らず、集団自殺してしまう若者や、犯罪を犯してしまう若者が後を絶たない。私がそんな彼らに対して何かができるとは思えない。でも看過できない感じはしている。それは彼らの存在が一種独特な異様なものではなく、どんな人にも、どんな環境でも起こりうる、そうゼロか1かと考えた時に、ふっとスイッチが入ってしまった、そんな感じがするからなのだ。だからスイッチが入らなければ、何かの偶然でそれが少しでも軌道をそれたのであれば、一線を超えてしまったあっち側の人にならなかったかもしれない。

そんな彼らが犯罪を起こす前に、自ら命を絶つ前に、一箇所だけ訪れることができるとしたら。

そんな彼らに何かを言える人がいるとすれば、それは誰か。

そんなことを考えていた時に、彼の笑顔を思い出した。

彼は結局、私たちに何の説教もせずに、ただただ美味しい食事をふるまってくれた。宗教的なことは何も話さず、お寺の改築の話をしてくれた。そして今度はもっとごちそうを準備してお待ちしていますと言ってくれた。その清清しい感じは、幼い子供達にも伝わっていたように見えた。

彼は目に見えないものの力を信じている。

あの時私が受けた何とも言えない清清しい感じは、私を通じて他の人に伝播されるであろう。

もしあなたが、死に直面しようとしている自分に対して、哀れで可愛そうで辛くて情けなくってどうしようもなくって涙が流れてしまうのであれば、ぜひともお寺や教会に行ってみてください。

涙が出るのは、まだ生きる力がある証拠。

私には涙さえも出なかった数年間がありました。だから分かる。涙が出るのは心の中が乾ききっていない証拠。暖かな人間らしい血が流れている証拠。

お寺に行って、そこにいる人に自分のことを話してみてください。あなたを苦しめている何かが解決するわけではないかもしれないけれども、何かに向かって一直線に走ろうとしている軌道が、少しずれるかもしれないからです。

私が小学生の時にクラスメートだった男の子が、中学に入ってから自殺してしまいました。特に親しいわけでもなかったのですが、それでも女だからといって人の目など気にせず、彼のたった一人の友達になることができたら、彼は死ななかったのかもしれないと30年近く経った今でも自分を責めることがあります。特に親しくもなく、ほとんど会うこともなかった人に対しても、です。

自分で自分の命を絶ったり、人を殺めてしまったり(それはほとんど自分を殺してしまったのと同じです)、あなたはきっと自分の存在がとても小さなものだと思っていることでしょう。周りには誰もいなくて、たった一人のような気がしていることでしょう。

でも実際は違います。あなたと関係のある全ての人が、その後何年もの間、いえ一生かもしれない、答えの出ない苦しみを抱えてしまうのです。

何故助けられなかったのか。

何故気づかなかったのか。

何故相談してくれなかったのか。

何かのアクションを起こそうとしているあなたには、日々の生活に必死になっている周りの人は、きっとバカみたいに見えるでしょう。命をコントロールしようとしているあなたは、全知全能の力があるように思えるでしょう。

強くなくていい。

お寺に、ちょっと寄ってみてください。

Posted by akemi at 2005年11月21日 23:19

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