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2001年02月18日
「生きる力」と基礎学力
最近、教育の現場で聞かれる言葉に「生きる力」というものがある。
文部省が出してきた言葉だから、あちこちから批判もあって、ママさん達の間には、「また文部省が、よーわからんこと言うてる」という懐疑的なムードさえ漂っている。しかし、私は最近になって、この「生きる力」の大切さをしみじみと感じるのだ。何故、文部省がこんなことを言わねばならないのか、そのあたりも何となく理解できる様な気がしてきた。
日産のカルロス・ゴーン氏。すごい人だなぁと尊敬の念をもっていつも拝見しているのだが、彼が日産に来て最初に言ったことが「まず、言葉の定義からはじめましょう」ということだと何かの雑誌で読んで、ものすごく感動した。特に、日本語というのは定義が曖昧で、暗黙の了解のうちに、ただ何となくわかりあっている様な気がする、ということが多いのだが、これは外国の方にとっては全く理解不能なことであって、彼がそう言ったのは当然のことかも知れない。それでも、きちんと言葉の定義をして、という彼は、本気でこの会社を立て直し、国際競争力に打ち勝とうと思っているのだ、と感じられて素晴らしいと思うのだ。
そう思ったのはネット上のある議論がきっかけだった。「社会性というのは集団生活の中で自然と身に着くものではありません。親のしつけで身につくのです」という内容の発言を読んだ時、私の頭の中は???で一杯になった。その?というのは、この発言者に対する違和感ではなく、「社会性」って何だろう、という事だった。そう考えると、もう「社会性」とは何ぞや?と哲学的なことが頭をよぎり、世の中の言葉全部が、私には理解不能な言葉の様に思えた。どうしてこれで今まで色々な人とコミュニケーションとれていたのだろうか、と思うと、いや、本当には理解しあえてなかったのではないか、という想いがふつふつとわいてきて、「まず言葉の定義を」といったゴーン社長の言葉がすっと脳裏をかすめた。
ネット上の議論で、全く平行線をだどったり、お互い、まず結論ありきで相手の意見を全く聞いていない様に見えることがよくある。お互い、ある単語の定義(というより、その単語の理解)が、違っていることも多い。そんな時に、きっちり定義づけをすると、議論が整理されるのだろうが、そういう展開になることはまずない。お互いを罵倒して、相手は何と頭の悪いヤツかと切り捨ててしまうこともよくある。先の話題に戻るが、「社会性」とは、人とコミュニケーションをする能力だと思う人もいるし、道徳心を身に付け自立する能力だとする人もいる。コミュニケーション能力をイメージする人は、集団とのかかわり合いを重視するだろうし、道徳心をイメージする人は、親のしつけを重視するのは理解できる。そんな時、「社会性」という言葉の定義をきっちりすると、お互い考え方に大きな違いはなかった、ということもきっとあるだろう。言葉の定義をきっちりとすることで、結果的には不必要な対立を生むことのない、幸せなコミュニケーションがとれるのではないか、という気がする。
ところで、「生きる力」と聞いて、皆さんはどういう定義をされるだろうか。私は次の様な定義でとらえている。
「親兄弟を失い、財産もなく、家屋もなくなってしまった」という状況で生きていく力。
そこまでー、という方もいらっしゃるかもしれない。しかし、私は確かに大学時代に「今、親兄弟が死んで、家もなくなって、お金もなくても、私、生きて行ける」という自信を得た瞬間があった。若さもあっただろうが(というのは、今この歳になって逆に、親兄弟に死なれたら、もう生きていけないっ、と思ったりする)、いろいろなアルバイトを重ね、インドやネパールに一人で出かけて、どんなトラブルにもそれなりに乗り越えて、ポジティブに生きてこれたという自負が、確固たる「生きる力」として自分に備わったと感じらえた瞬間があり、その力のおかげて、この歳まで生きてこられたという実感が私にはあるのだ。だから私は、自分の子供にも、この力をつけてもらいたい、そしてそれは、人間が生きる上で必要最低限であり、しかも最高の能力だということを伝えたいと思っている。私の父がいつも言っている「頭の良さというのは生き方の問題だ」という言葉は、有名大学を出ているとかそういうレベルではなく、本当の頭の良さというのは、その人の生き方、つまり逆境に置かれた時に、いかに腐らず、人のせいにせず、ポジティブに考えて判断して行動できるのか、というところに現れるのだ。
文部省の新しい指導要領の批判の中に、「生きる力を求めるあまり、基礎学力をないがしろにしている」というものがある。こういう方の中には、「生きる力」というものは学校で学ぶものなのか?という疑問があるのだと思う。それに対しては、私も似た意見をもっている。「生きる力」というものは、親の後ろ姿を見たり、日々の遊びや生活の中で、少しずつ経験をつんで習得していくしかないだろう。しかし、昨今の子供たちを見ていると、そんな「日々の遊びの中での経験」さえも積めない状況になっているということを感じる。
この「生きる力」の重みを考えた時に、「基礎学力が低下してしまう」「中学受験に遅れをとってしまう」などということは、私に言わせれば、ふけば飛ぶ様な紙切れ一枚程度の重みしかない。話のレベルが全く違うのだ。「生きる力」が、真の頭の良さを子供達に授け、どんな逆境にも、時代の変革にも、乗り越えていける人間へと導くのだ。その能力があれば、自分が必要と認めた時には、自分から勉強もするし、困難な道も乗り越えていくことができるのだ。
今は家庭だけでは「生きる力」をつけられない。文部省の悲痛な叫びにも似た、苦渋の方針なのではないか。私は、その方針は間違っていないのではないかと思う。表面的な批判をする前に、「では、自分の子供に『生きる力』をつけさせるには、自分には何ができるのだろうか」そう自問してみるといい。
Posted by akemi at 2001年02月18日 18:42
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