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1999年11月08日
子供が幼くいられるということ
うちの長女「カオル」は、理由あって、幼稚園を転園した。
私立の幼稚園の教育方針にあわなかったのは親の私の方だった。躾に躍起になり、子供ではなく親へのサービス過剰、何かあるとすぐ「自立」を叫ぶ幼稚園。そして何より、担任の先生に「子供への優しく暖かい愛情」を感じず、自分の子供が軽んじられていると思ったら、いてもたっても居られなくなった。
それから色々な幼稚園を探した。途中入園を受け入れてくれる園は、ほとんどなかった。たった一つ、公立の幼稚園のみが見学を許可してくれたので、見に行って驚いた。何と子供たちがのびのびと生き生きとしているのだろうか!!
モンeッソーリやシュタイナー関係の幼稚園の子供達を見て驚いたことがあった。何故だか、子供たちが妙に「幼い」感じがしたのだ。それと同じ印象を、その公立幼稚園の子供たちにも持ったのだが、これは他の私立幼稚園には、全く無いものだった。うちの周りの私立幼稚園に通う子供たちは、いわゆる「子供らしさ」があまり無い。大人のミニチュアみたいな会話が続く。大人社会でしか聞かれない様な言葉がポンポン飛び出し、身なりもコギャル・マゴギャル路線に思えたりする。それが普通と思っていたから、その公立幼稚園の子供達を見て、逆に驚いてしまった。「昭和初期みたいなコドモたち」がそこに居た。今も昔も子供は変わらないんだな。そう思うと嬉しくて涙が出そうになった。
「幼い」つまり、「子供が子供らしくいられる」ということは、どういうことか。これは、常に大人側の都合を押し付けられていない、ということに他ならない。行動基準が大人とは違うということを保証されているのだ。その公立幼稚園の子供たちは、2年間のあいだ、大人側の都合とは関係のないところで、「自分が自分である」ことを尊重されていく。そして自分の「我」を通すことで他の子供たちとぶつかり合うのだが、それをそれぞれ小さいながらも自分なりの地頭を使って、乗り越えていく。その中でどんどん精神的にも強くなっていく。自分の我を通して、相手の我を押し付けられ、トラブルになり、それぞれが考え、行動していく。何度ケンカしても、仲直りをして、受け入れられて、相手を許して、その中で強くなっていく。そんなこんな、日々ドラマチックな関係を続けて、大人の目を気にせず、自分自身の「生きる力」を育て続ける子供達。 「大人ウケする行動様式」を押し付けられずに、幼いことを許されてのびのびと育っているのだ。そしてこれがどれほど大切なことか、多くの親達はきっと気づいていない。頭で考えてはいても、半分本能的に行動できてしまう幼少期の、この多くの体験が、いかに重要かを。
しかし、多くの私立幼稚園では、大人、つまり先生の言う通りに出来る子供が「よい子供」であるため、子供たちは常に、先生の目を気にして行動するクセがついていってしまう。これは、行動規範を外に求める、ということになりがちだ。全員が先生の方を向いて、子供たち同士の横のつながりもなく、トラブルもなく、また、ケンカになれば仲裁が入り、ということばかりをやられていては、子供達の中に、「自分自身で考えて、行動する」という能力が育つわけがない。そういう環境においておきながら、いざという時に「最近の子供は自分で考えて行動できない」などと憤慨したりする親や先生がいる。そういう姿を見る度に、「あなたがそう仕向けたんでしょうが!」とツコミそうになることもある。
子供が幼く、子供らしく振る舞えないということが、いまの日本の病理の根源かもしれないと、ふと思うことがある。日本の社会全体が、「大人のミニチュア的子供」 を求め続ける限り、 自ら判断し、答えを導く子供など育つことはないだろう。
Posted by akemi at 1999年11月08日 18:42
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